しぃぶろぐ。

仕事とか技術関係のこと。他色々

1人の女性がエンジニアになるまで〜shiranuikの場合〜

はじめに

この記事は @wiroha さんの以下の記事や、それに続く皆さんの記事にインスパイアされました。

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いろんな方がいろんな半生歩んできてるんだなーと思うとともに、自分の半生も誰かの力になるなら書いてみるかと思いました。

忙しい人向けに3行で

  • 本読むことしか考えない幼少期でした
  • 当時のオタク女子のご多分にもれずホムペ()開設してあれこれしてました
  • 何を間違えたかIT業界に入り、結婚出産しつつ現在もフルタイムでエンジニアしてます

幼少期(〜小学生)

本を読むのが本当に好きで、低学年のうちに学校の図書室でめぼしい本は読破してました。 中学年あたりから自分で本を買い出し、高学年ではお金が続かなくなったので区立図書館で文庫読み漁ってました。

ジャンルは基本ミステリーとかファンタジーものが多かったですね。

最初に自分のお小遣いで買った本は忘れもしません。折原みとの「海へ還る日」でした。 そっからポーとかアガサ・クリスティ、赤川次郎とかを古本屋街へ歩いて行って買う日々でした。

だいたいオタク気質のあるフィクション好きな子供は自分で書き出すんですよ。ソースは自分。

親のワープロで遊んで書いたり、文通してた実習生さんに書いたお話送ったり、演劇クラブで脚本書いたりしてました。 白雪姫に魔女(継母)から年賀状が毎年届いてるってギャグがみんなに受けなかったのが地味にショックだったの覚えてます。

あとやっていたことと言えば、アニメ見ることですかね。 テレ東のゴールデンタイムはテレビの前から一歩も動きませんでしたし、長期休暇のBSアニメ特選は毎年見てました。

実父が趣味人で、当時のパソコン(PC98とかだったと思うが自信無い)は家にありました。 5インチフロッピー2枚さして、兄や兄の友達とキーボード使ってぷよぷよ対戦してました。

まだエンジニアのエの字も出てきません。

中高生

相変わらず本大好きなテレビっ子でした。

中学では音楽部、高校では化研漫研文研天文箏曲コンピュータ部+図書委員会と編集委員会(学校誌を編集して出す有志委員会)やってました。

中学あたりからようやくまともに、放課後や休日に遊ぶ友達ができました。(が、テレ東ゴールデンまでには帰宅する良い子)

高校に上がる頃にやっとネットに繋がる自分のパソコンをゲット(パワーマッキントッシュでした。多分これの黒いの)。

あの頃のオタク女子の嗜みとしてホームページを開設し、カウンターや掲示板、日記、チャット諸々を設置してました。

ビルダー系ソフトのアレっぷりに嫌気がさしてテキストエディタ物色したり、CGI設置のために文字コードや改行コードの闇にのまれたり、素材がないなら作ってしまえで画像作成周りの沼にハマったりしました。

Webの世界にこんにちわしたのがこの頃ですね。そしてこの頃からこの名前名乗りはじめてずっと変えてないですね……。

大学生

女子大(後に共学化)に入りました。 もうずーっと本大好きなままだったこと、高校の数学で挫折したので、文学部の日本文学科でした。

ぶっちゃけ滑り止めの滑り止めで、センターの結果だけで入れたよやったね!でした。

まぁそんな大学だったので、必修単位と年間上限単位の差があまりなく、ほぼ毎日大学行ってましたね。

部活(そう、サークルではなく部活)は演劇部と文研でした。

演劇部の方ではチラシつくったりSE(効果音)つくったりBGM編集して尺合わせるようにつなげたり楽しかったです。特にチラシ作り超楽しい。やりたい。 チラシ作りのために、自作PCのメモリ増やしたりしました。

先見の明があったのか、当時にしては珍しくMOS系(エクセル・ワード)の授業が全学生必須でした。

二年目以降にプログラミングの授業があり、CGI設置で”自分でプログラムをいじる”ことの面白さを感じ始めていた私はワクテカで受けました。 ら。ド文系女子に対して先生のドSっぷりがすごかったですね。最初の一ヶ月くらいパソコン触りませんでした。やったのは2進数やN進数とはとかビットの計算とか……。

それが終わったらと思ったら、メモ帳で数値計算するJavaプログラム書いて、Windowsのプロンプトでコンパイルの繰り返し。

通年授業だったんですが、半年たったら生徒半分くらいになってましたね。

それがきっかけで3・4年時はパソコン系授業のTAバイトしてました。楽しかった。

教職課程をとって単位取得はめっちゃ順調だったのですが、教育採用試験向けのゼミには出入りしておらず、一発合格できる気もなく。そもそも自分は本当に先生になりたいのか……? 教壇にたつの……? それよりパソコンの前でカチャカチャしてるほうが楽しくない……?ってなってました。

就職させようという気が本気の大学で、確か2年の頃から就活向けの授業がありました。

企業の中の人招いてこんな仕事してますよーな授業とか、面接対策とか自己分析的なのとか。あとはメイクの授業もあった(はず)。

3年の秋には合同企業説明会が学内で開催され、そこでSIerの話聞いてええやん、と。(ちなみに他には自衛隊とかもきてた。超興味深かった)

そっから就活本格スタートし、SIer業界に絞って就活開始。

当時はまだライブドアショックもリーマンショックも先の話で、IT業界全体は売り手市場でした。小さい独立系SIerだけど直取引のみ(子請孫請してないよ)のところから内定が出たところで就活やめました。4年になる前に就活終わったのでめっちゃのびのびしてましたね。(それでうっかり司書教諭の単位一個落としたりしたなぁ)

一社目(Java系SIerからの育休切り編)

ようやく社会人になりました。 4年の10月からたまーに研修、3月からまるまるみっちり研修スタート。名刺の渡し方から始まり、オブジェクト指向とかの座学や、研修後半はACCESS使って何かお題だされてチームで開発していた気がします。

あ、あと女子にだけ給湯室の掃除のやり方やコーヒーや緑茶の淹れ方とか教わりましたよ。女子だけ。時代ですね。

同期は10〜20人程度だった気がします(すでに記憶がない)。女子も3〜4人いましたし、文学部卒は珍しくても文系学部卒は普通にいたので、あんまりマイノリティだとは思っていませんでした。恵まれてたのかなぁ……。あと理系出身との実力差を感じてなかったのも大きいかも知れない。中小企業だったからね……。

5月には某外資系のグループ企業の研修会社に常駐が決まりました。 本当にほんとうにお世話になった現場で、お客さんにもおねーさま方にも優しくしてもらっていました。

お客さん先に女性オペレーターさんが多い、他社からの常駐も女性2人、ウチの会社からも私含めて女性3人いたので、ここでも女性エンジニアたくさんいました。恵まれてる。

OJTうけつつ、JAVAとかACCESSとかで、割と楽しくのびのびしてた気がします。

事態が急転を迎えるのは一年目の終わりでした。

弊社社員(私・先輩男性・先輩女性・副リーダー女性・リーダー男性・上司)のうち、私以外の女性が同時に退職。副リーダーしてた先輩のお仕事がまるっと私に投げられました。

お客さんやおねーさまオペレーターさん、他社さんや中国の外注先との調整や折衝の担当に。

ようやくなれてきたかなーと思った頃に第一子妊娠発覚。

めっちゃ各方面に謝り倒しました。

このあたりからしばらくだいぶ記憶が曖昧です。(子供の出産前後のお仕事の記憶が本当に………。)

産休育休は取るけど、できるだけ早く同じ現場に復帰するように調整していただき、ぎりっぎりまで働いて産休に入りました。

出産前日に引っ越し手続きをしてお部屋掃除していた記憶があるので、そのあたりの処理も色々やっていたはずです。

長男出産後は一ヶ月実家でごろごろさせてもらい、その後出産直前に契約した家で義母と同居。

色々有りつつも結婚式を迎えてました。

運良く5月だか6月くらい(だったはず)に長男が認可保育園に入園。これは本当に運が良かった……。ぎりっぎりで滑り込めました。

結婚式終わって長男の慣らし保育が終わったところで現場復帰しました。

当時は私の現場が遠かったので、平日のうち月〜木はパパがお迎え・金曜だけ早退して私がお迎えをしていました。本当にありがたい現場だった……。

そのうち掛け持ちで他の現場のリーダー(契約上のリーダー別にいたけどその方他現場で不在だったので実質リーダー)とかもありました。

ずっとお世話になってた現場から、他の現場に異動になり、リーダー的ポジションのお仕事増えてきてめっちゃ嬉しかった記憶があります。

スクラップビルド案件で顧客と要件定義とか基本設計任せてもらってやったあああああって思ってたところに

第二子妊娠。

まーーーーーーーーーーーた各方面にあやまりつつ、プロジェクト事態はテスト工程が8割終了くらいで離脱→産休育休にはいりました。

今度は保育園がなかなか見つからず、認証保育園に滑り込みました(別々の園に登園・お迎えってめっちゃ大変だからみんなできるなら避けたほうがいいよ……そうも言ってられない事のほうが多いんだけどさぁ……)

が、今度は今までとは違う感じの現場に配属になり……。頑張ってましたが失敗続きでめげてたところに第三子妊娠と東日本大震災でしっちゃかめっちゃか。

もう疲れたから今度こそのんびり育休とる!!!!!って思ってガッツリ一年強とりました。

ら!ね!!!

育休復帰前に乳幼児3人もいるんで、現場は近くか時短させてくださいって言ったの。この時点で休職前の上司と違う人が上司になってたのがアレだよね。

なーんか歯切れ悪い回答でのらりくらりされたと思ったら、ある日「会社の代表社員との合意でウチでは時短勤務認めねーから」って言われたんですよ。はああああ?こちとら3人目の保育園ももう決まってるんですけどおおおおおお?????

ぶっちゃけ、休んでいる間に個人的にお仕事請け負ったりし始めてたので、のしつけて辞めてやらァ!しました。個人事業はじめるかぁって。

ほそぼそ個人事業しつつ、家事がてきめんにむかないなーとか悩みつつ、とある教育関係のサイト開発(PHPとjQueryだったと思う)でパートしたりしてました。

そんなある日、旦那が体を壊しフルタイムの職を退職することに。 なら私がフルタイムに戻るねーと職探し開始。

無事に二社目の塾の会社に拾われました。

二社目(塾の会社で全国放浪編)

祝日が基本出勤だったり週1以上で電話当番という名の残業が確定だったり休日一日拘束系のイベントが年2であったりと、聞いてないよ!!!なこともありましたが、おおむね穏やかに働いていた気がします。

社内SEらしく、セットアップ作業とかちょっとお祭りっぽくて好きでした。パソコンずらぁっと並べて一斉に操作したりとか。各校舎の備品の棚卸しとか。開発の合間あいまにそういう作業が入るの結構気分転換になって好きでしたねぇ。壁うらのLANケーブルが鼠害にあって、急遽長いLANケーブル持って床に這わせたりとかね。WindowsUpdateの罠にハマって各校舎回ったりとかね。

が、ある頃から社内SEだったはすが、開発しているシステムをがいはんするからうんぬんかんぬんとなり。

全国各地を飛び回ったり、外販先のお客さんのクレーム電話とったり、その隙間で開発すすめたりとか色々ありました。

出張は楽しかったけど、たくさんあるのは体壊すんだなって、新幹線の駅で遅いお昼にラーメン食べてたら鼻血止まらなくなったときに思いました。無理だめ絶対。

まぁ、そのタイミングでは辞めずに、ただでさえ少ない年間休日がさらに減りまーすってなったときに「あ、無理」ってなって辞めました。

給料上げるし出社ほぼ不要で祝日休みの契約社員にならない?とか、引き止めは強くされましたね。

次が決まってるんでごめんなさいしましたが。

三社目、そして現職へ

三社目は、今までの人生のなかで縁のなかったマッチング業界に潜り込みました。

社会人になってから技術的に成長できる環境ではなかった(基本的にOJT=おまえが じぶんで トレーニングだった)ので、ちょっと技術的に背伸びしたところ、かつチームで仕事するところに行きたい!と思っていました。

開発以外にもいろんなことやらせてもらったのでなかなか楽しかった。ただ、いろんな事情でチームでのお仕事ができなくなってしまったのが悲しかった……。

今の会社の中の人に、来ない? と言われたので行くー! とこたえて辞めました。

そして今の会社では、AIを使ったサービスを作るお仕事してます。数学いまでも苦手なのでAI本体作るお仕事はできません。無理です。

前職もだったけど、すごい人ばっかりで、毎日みんなすごいなぁって思いながら仕事してます(語彙力)。

あと一周回って一社目と同じように他の会社さんとか他の業界のお仕事するのめっちゃ楽しい。私こういう業界の裏側覗くようなお仕事めっちゃ好きーーー!

まとめ

社会人編後半はだいぶ駆け足になってしまいました。

状況に流されるまま今でもふわふわして大した覚悟も実力もなくエンジニア名乗ってます。

家庭においても、家事できないしお叱りもしないし、あんまり良い母や良い妻ではないなぁと思ってます。

でもまぁ、比較優位だ、いるだけ役に立ってる!と信じて日々生きてます。

(NHKで昔やってた「出社が楽しい経済学」みて比較優位とかの概念覚えたんですが、NHKオンデマンドにも無いしDVDブックはプレミア付いてるしでオススメできない……くそう……。すごくわかりやすかったのに……)

写真も無いのに、ここまで読んでくれてありがとうございます!

こんな人間でも立派に生きてます!というサンプルとして誰かの自信になればなーって思ってます。

女性の知り合い少ないので、ツイッター(@shiranuik)でも何でも雑に話しかけてくれると嬉しいです。

いつもの知り合いもいつでもウェルカムですぜ。